「松永?」

 結城日名子は問い返した。

 「そいつが、容疑者なの?」

 美咲は自信たっぷりにうなずく。

 車は、緩やかな坂道を登って丘の上の住宅地に達しようとしていた。

 「でもねえ・・・・・・」

 日名子はハンドルを握りながら、いぶかしげに呟いた。

 

 彼女はもともと、今回の事件の直接の担当者ではなかった。

 公安が取り扱うのはスパイからテロリストまで、いわゆる「国家の安全に危害を及ぼす」連中が対象だ。なかでも警視庁に対して特務権限を持つ広域8課には、武装した反政府主義者を検挙する荒事専門の捜査官が配属されており、そこに籍を置く日名子と美咲が、所轄の事件に首を突っ込むのは筋が違った。

 「でもまあ、世情を騒がす連続誘拐ってやつだから・・・・・・」

 どことなく楽しそうに、美咲が言った。

 日名子は、美咲の父親が警察庁の幹部であるために彼女がこの職についているとは思っていない。まともな父親なら可愛い娘を公安8課へなど配属させないだろう。本来地方の警察署長を歴任してキャリアの一角に登り詰めるはずの美咲の人生を狂わせたのは、彼女がもつある本性だ。それがどれほど危険なものであるのか、日名子はすでに十分過ぎるほど思い知っている。

 「なんでタレコミがうちにはいったの、ていうか、なんであんたのとこに来たのよ」

 日名子は、管轄を犯すリスクと、おそらく自分に与えられた真の職責、すなわち美咲の監視兼お守りといううっとうしい任務が破綻する予感を思い、陰鬱な気分になった。

 ただ、自分たちが別件でこの街に滞在していたそのタイミングで、美咲の携帯に情報がもたらされ、犯人と思しき人物が潜伏する屋敷が5キロの距離にあった以上、急行しないほうが不自然である気はした。

 「若い女ばかり17人、生贄にでもする気かしらね」

 美咲がうそぶく。

 日名子は応えなかった。丘の上に夕日を浴びて、大きな屋敷がみえる。目的地はそこだった。 

「対象が快楽殺人の性癖者なら、もう殺されてる可能性があるわ」

 日名子は屋敷から距離をおいた木立の脇に車を止めた。

 「此処の所有者はねえ・・・・・・」

 美咲は車載された端末で情報を取っていた。

 「松永一次、経営コンサルティング会社、玄コーポレーションの代表取締役、社員は松永のみ。昨年の納税額は、ええと、結構な額ねえ」

 「業務内容と住んでる家の規模がアンバランスね。事業所在地の登録は?」

 美咲は壮絶なスピードでキーボードを操る。この真似だけは、日名子にはできなかった。

 「この屋敷で登録されてるわね。でも土地の所有者は別になってる」

 美咲は、耳慣れぬ合社法人の名をあげた。

 「これコード9だわ」

 彼女の検索結果はある結論に達していた。コード9すなわち本庁によるアクセス段階制限情報。多くは国家主管の非公開計画に抵触する情報に掛けられるガードである。

 「やばいやばい、やばいわねえ」

 美咲は、やはり楽しんでいた。日名子は、彼女がすでにこのことを知っていて、タイミングよく自分を巻き込んだのではないかとさえ勘ぐってしまう。

 「ね、日名子、応援要請出さないで正解だったでしょう」

 美咲はこの家に向かうにあたり、日名子が主張する所轄への応援要請に待ったをかけた。不確定な情報だから、確証がつかめるまで自分たちだけで捜査したいと言って聞かなかったのだ。

 日名子の上司は、言外に美咲を甘やかせと言っていた。気分よく働かせて次の異動では首尾よく本庁へ栄転してもらう。問題さえ起こらなければ来年度予算で課の規模は拡大されるし権限も増える。さらに言えば、日名子の公安捜査官としての地位も、どこか納得できないがそれで磐石になるはずだった。美咲とちがって青森で居酒屋を営む両親をもった日名子にとって、今のキャリアはかけがえのないものだった。

 「さて、いきましょうか」

 「くれぐれも、紳士にね」

 なかば浮かれたつ美咲に釘を刺し、日名子は車を降りた。

 ふたりともスーツを着ているが、黒ずくめで飾り気のない日名子に比べ、美咲は正反対だった。一見すると二人は、モデルとその護衛のようだった。

 丘の上からは、かろうじて暮れきらない街が一望できた。二人は、開け放たれて門を抜け、長い庭園を抜けて玄関ホールへ向かった。

 颯爽とゆく美咲の横で注意深く左右を監視する日名子。ホルダーから出た銃把をなぜつけて確認した。

 「不法侵入♪」

 美咲がたのしそうに言う。

 「住人がシロなら、怒鳴りつけられるか警察に通報されるか、それだけよ。間違ってもいきなり射撃される心配はない」

 日名子が低くいうと、美咲が嬉しそうに、「そうよ、そうなの、結構いい国なのよねえ」と継いだ。

 玄関ホールに立つと、二人は中の様子をうかがった。

 窓からは何ら光が漏れておらず、無人というより廃屋に近い雰囲気がする。

 「玄コーポレーションだったっけ」

 日名子が油断なく気を配りながら言った。

 「経営コンサルタントにしては、看板もでてないのね」

 ホール前の泥の上に、複数のタイヤの跡が残っている。轍の深さからしてミニバンかワゴン、それに玄関と往復している足跡は男性のものが複数、それと歩幅が一定でないちいさな足跡は、此処へ入っていった女性がなんらかの原因で衰弱していた事を示唆する。 

「黒、真っ黒か。・・・・・・で、どうするヒナ」

 日名子は逡巡した。すぐに無線で本庁に連絡、所轄の到着を待つ。あるいは、捜査本部が特殊部隊を派遣してくるかもしれない。私たちは現場より速やかに撤収し、デスクで結果報告を受ける。だが、正規の手続きなら美咲の情報源について何らかの聞き取りがあって、さらに加えて管轄侵害のクレームもつく。美咲にとって、いや彼女の保護責任らしきものを負わされているらしい日名子にとっては、あまりいい点数の結末ではなかった。

 だからといって、踏み込むってのもねえ。

 彼女がそう思いかけた瞬間、美咲の脚が上がった。

 勢いよく、ドアを蹴り上げる。

 「ちょっと!」

 もちろん、そんな事ぐらいで映画のようにドアがぶち破れるはずもない。扉は虚しい音を立てた。

 「いたたたた」

 ダメージを受けたと見えた美咲は、めげずに再びドアを蹴った。どうやら、ノックしているらしかった。

 「あんた何してるのよ」

 「突入よ、突入。なんでもなければ帰りましょう」

 「なんかあったらどうするのよ。検挙する権限ないでしょうが」

 あせる日名子に、美咲はにやりと笑う。

 「逮捕して手錠掛けて転がしときゃいいのよ。捜査本部の管理官、穴山さんでしょ。貸しになるって」

 おそるべき計算高さに圧倒された日名子が何か考える前に、ノックの結果が現れた。

 ドアが、開いたのだ。

 「何か、御用でしょうか」

 薄暗い玄関の内に、メイドの服装をした少女が立っていた。

 「すみませえん」

 身を割り込ませながら、美咲が笑顔で応じる。

 「県警の石原と申します。誘拐事件の捜査でこのあたりを回ってまして」

 日名子は美咲の肩越しに室内を盗み見た。

 ホールから2階へ、大層な階段が登っている。

 ―――なによこれ、風とともに去りぬじゃあるまいし。

 日名子が感想を独白に留めたのとは裏腹に、美咲は口に出して評する。

 「凄いお屋敷ですね。まるでバイオハザード」

 メイドの少女は、まったく無反応だった。

 日名子が咳払いして言う。

 「この家のご主人はご在宅ですか」

 少女が、「いいえ」と応える。

 「どちらにおいでですか、お教えいただけますか」

 少女はそれでも応えない。

だが日名子はそのとき、後方に車の音を聞いた。

 美咲がすばやく室内に滑り込む。こういう時のすばやさは一品だった。

 日名子もまた、あわてて壁の内側に身を伏せ、ドアを閉めた。

 閉じたドアの前にぼうっと立つ少女に向かい、日名子は低く声をかける。

 「脅されているなら、私たちが保護する」

 「無駄よ、ヒナ」

 美咲が首を振った。

 「薬を打たれたか、なにか暗示をかけられてる。催眠かもね」

 美咲は少女の口を抑えると自分の脇まで引っ張り寄せた。

 彼女がなにかささやくと、少女はぐったりして床に身を横たえる。

 「ちょ、っと、何したの」

 美咲は、「何でも」とうそぶいて笑顔を見せた。

 「来るわよ」

 車のエンジン音は、玄関ホールの泥の前で停車した。ドアが開く音が聞こえ、何かを運ぶ物音が近づいてくる。

 ―――ここは暗闇、外はまだ薄暮。

 直感的に、日名子はドアに手をかけた。

 美咲は一瞬顔をしかめたが、是非もなしとすぐにうなずく。

 二人は拳銃を抜いて、ドアを開け放った。

 そこには、4人の男が立っていた。

 泥の中で停車しているワゴン車から降りてきたらしいその4人のうち一人が、大きな袋を引きずっている。いまどきどこで売っているのか見当もつかない大きなズタ袋、その結び目から、身長が大きすぎてはみ出したのだろう、白い指先が見えている。

 突如現れた二人の女にさすがに驚いたのか男たちは、一瞬動きを止めた。

 だが次の瞬間、彼らは殺気立って身構える。

 「動かないで」

 日名子が銃を向けながら叫んだ。

 「その袋の中は何ですか」

 低い声で、日名子は言った。聞くまでもない。だが彼女はあくまでも捜査官として行動した。

 「やれやれ」

 そのとき、車の脇から声がした。

 日名子がぎょっとして目を凝らすと、ワゴン車の脇の暗闇に、車椅子が見えた。そこに一人の老人がいる。

 「君たちは警官かね」

 妙な抑揚のある声で、老人が言った。やせこけていて、力のなさそうな男だった。頭頂部は禿げ上がっていて、わずかに白い髪が頭の周辺から伸びている。ブレザーを着ているが、上下とも丈が大きすぎてぶかぶかしている。そして彼は、もう薄暗闇だというのに、奇妙なカッティングがされたサングラスをかけていた。

「袋の中身を見せていただけますか」

 身分についてはあまり多くを語りたくない日名子は、老人の質問を無視して繰り返した。

そのとき、美咲が緊張の度を深めて銃を構えなおしたのを彼女は知った。

美咲は、老人に銃の狙いを定めていた。目の前に立ちはだかる4人の男ではなく、あのひ弱に見える、車椅子の老人に。

 「なんと、ニセ警官か」

 老人が嘆息した。

 「物騒な世の中になったものだな」

 その声と同時に、男たちが動いた。

 日名子は息を止めた。一瞬、発砲しようかと思い、すぐに考え直した。

 真正面の男が両手を広げて襲い掛かってきた時、日名子は銃を水平に握り替えて銃把を振り上げた。

 まったく芸のない突撃に、日名子はきわめて冷静に対処した。

 銃把は男の肩口を直撃して男の体はつんのめった。違和感があったのは、男が悲鳴をあげなかったことだ。間近で見た男の顔には表情というものがなかった。肩の骨を打ち砕かれたというのに、眉一つ動かさない。

 男の手が伸びた。

 そのとき、すぐ脇でくぐもった圧縮音が聞こえた。美咲のサイレンサー付きの拳銃から発せられた銃弾は、男の太ももを一撃で打ち抜いていた。

 美咲は躊躇なく次の一弾を打ち込んだ。

 反対側の脚に血しぶきがあがり、それでやっと男の動きが止まった。

 それでも、男は倒れない。

 うつろな視線で、日名子たちを見据えると、もう一歩踏み出そうとして、そこで倒れた。筋が破壊されている為、物理的に歩けないのだった。

 「美咲、コレはちょっと・・・・・・」

 やりすぎじゃ、とさすがにやばいと後ずさった日名子を無視するように、美咲は踏み出した。

 発射音が響き、彼女は次々に男たちの脚を打ち抜いた。そこには、悲鳴も興奮もなかった。男たちは次々に動作不能になって泥のなかに倒れこんだ。そこでやっと、無念らしいうめき声が聞こえた。

 日名子は見た。美咲は、ほんのわずかながら笑っていた。自分が行いつつある行為を楽しんでいた。日名子にはそれが、戦慄だった。

 「ひどいことをするじゃないか」

 男たちが皆倒れ伏したのを見届けると、老人がひっそりといった。

 「あんたこそねえ」

 十分に満足したのか、美咲が艶のある声で言った。

 「酷い事、してくれるじゃないの」

 老人が、くっくっと笑うのが、すでに暮れきった闇の中で聞こえた。

 日名子は泥の中に放りだされた袋から、誘拐された被害者を救い出そうと駆け出した。

 「駄目、ヒナ」

 珍しく、激しい叫びをあげた美咲に驚いた日名子が立ち止まった時、老人の顔面が目の前にあった。車椅子はワゴンの横にあったはずだ。いつのまにここへ、といぶかしむ余裕などなかった。

 半身を引いて身構えようとする日名子の頭を、老人の干からびた両手が軽々と捕まえた。

 日名子は老人特有のかび臭い匂いをかいだ直後、耳元で何かをささやかれた。

 がくり、と膝が折れた。

 なぜか分からなかった。

 「やめなさい」

 美咲が動揺した声を上げているのが聞こえた。だが、それがどこか遠くのように感じられた。

 再び、耳元で声がする。

 日名子は、体から不意に力が抜ける感覚を覚えて、ぞっとした。それは錯覚ではなかった。

 彼女は体ごと、車椅子の老人に倒れこんだ。一見すれば、祖父に甘える孫のような図だったろう。

 「つーかまえた」

 老人が、子供じみた言葉を使った。

 だが日名子は、自分が本当に、この老人に捕まったということをひしひしと思った。

 すぐに手を押しのけて逃げられるはずなのに、そうする気になれない。出来るけど、いまはするつもりになれないのだ。このままじっとしていなくちゃ、そう、日名子は思った。

 「わかるぞわかるぞ。お前にとってこの女は重要だ。見捨ててしまえばどうということもないただの人間だが、お前はそうする事が出来ない」

 どこかで、生気を取り戻したように生き生きとしゃべる老人の声が聞こえた。日名子はそれを、夢の中のようにぼんやりと聞く。

 「あんたにとって有利な状況だと思ってる?」

 美咲が言っている。挑戦的な声だった。

 「認めたまえ。情がうつったとな。それが君たちの美点であり弱点だ。我々は、そういった些事雑事に惑わされぬから優位を保つ」

 「その挙句が女たちを・・・・・・」

 「殺してはいないさ。従順な女を好む政治家や財界人は多いからな。あれらはいわば、我々の支配領域を広げる餌みたいなものさ。さて・・・・・・」

 老人が、日名子の腰を触った。

 日名子は短い喘ぎをもらすだけで抵抗できなかった。

 「ここに掛けたまえ」

 日名子は人形のように老人に扱われ、彼の膝の上に座らされた。まったく抵抗が出来なかった。

 彼女の顔の真横に老人の顔がある。いつでも言葉を吹き込めるかのように、彼女の耳元に老人の息があたっていた。

 男たちが倒れるドロの向こうには、美咲が緊張を深めた顔で立っている。

 それは、軽口ばかり叩くいつもの美咲とは似ても似つかぬ別人のような険しい顔だった。

 日名子は、ぼんやりとそれを見つめた。

 思考が麻痺し始めていて、何がなんだかわからなかった。

 「君は、熊野の者だな」

 老人が言った。

 「あなたは、影法師ね」

 美咲が、応えた。

 二人ともが、うっそりと笑った。

 老人は日名子に呟いた。「お前はあの女を愛している」

 急に、日名子はいとおしくなった。美咲、彼女を抱擁したい。

 手を指し伸ばして求める日名子を、美咲は冷然と見下ろす。いや、その瞳に何か光が宿っていた。それは憐れみに似た感情であり、そしてそれとは本質的にはまったく異なるものだった。

 美咲が近づいた。

 老人が息を吐くのが分かった。彼は緊張しているらしかった。

 「動くな」

 老人がサングラスを外した。その後ろから、黄金色の瞳が現れる。直視すれば魂を奪われそうな、邪悪な輝きが闇に閃いた。

 「わしの目を見よ」

 老人が、その奇妙な抑揚を最大限に駆使して、叫んだ。

 「わしの目を、見よ」

 渾身の力で声をだしたそのとき、美咲に変化が現れる。

 「ああ」

 彼女は一瞬、何かに打ちのめされたかのように眉をしかめ、それからふらついた。

 「そうだ、それでいい」

 老人がいう。だが彼にも余裕らしきものはなかった。

 「力を抜け、熊野の女」

 苦しげに天を仰ぎ、そのまま美咲は泥の上に膝を折った。

 「おまえはもう、わしのものだ」

 老人が、呪文のように唱える。

 美咲は抗おうとして首を振る。だがそれも無為だった。

 老人が指を開いて引き寄せるしぐさをすると、それにつれて美咲の半身が揺れ動いた。

 苦痛にゆがんでいた彼女の顔は、それにつれ弛緩したようにうっとりとしてゆく。

 彼女はまるで、数歩も離れた老人の指に操られるように、ゆらゆらとふらつき、やがて立ち上がった。

 「此処へこい」

 美咲が、「はい」とうつろな声で答えるのが聞こえた。

 美咲は、無防備に老人の前に立った。瞳からは光が失われ、焦点の定まらない視点が宙を泳ぐ。

 「ひざまずけ」

 老人の言葉は、彼女を支配していた。日名子は、混濁する意識の中で、なぜか自分のために美咲がやられてしまった事を直感していた。自分がいなければ、彼女はなにか決定的な方法でこの老人を排除していたに違いないのだ。だが美咲は、それによって日名子が危害を受ける事を慮り、みすみす老人の手中に落ちてしまった。

 泥の上に無造作にひざまずき、美咲は首を垂れた。

 「わしに忠誠を誓うのだ」

 老人が、やや狂騒的な声で言った。興奮しているのかもしれなかった。

 「やったぞ、わしはついに暗士を・・・・・・」

 しかし、彼の次の句はなかった。

 強烈な拳が、老人の顎を一撃していた。それは、日名子が放ったものだった。

 「な、な、」

 驚愕のなかで老人の車椅子がひっくり返った。日名子ともども勢いよく倒れ込む彼の面前で、美咲もまた泥中に突っ伏す。

全員が気を失い、その後は闇の中の静寂だった。

 

 

 「いやあ、危なかった危なかった・・・・・・」

 車に乗り込むと、美咲は大げさに息を吐いた。

 日名子は、猛烈な疲労感に返す言葉もなかった。

 泥まみれになった二人は上着を脱いでいたものの、髪についた汚れは不快そのものだった。

 「とりあえず、私の部屋行きましょ」

 美咲があっけらかんとしていった。

 「あの男引き取りに来させなきゃならないから」

 車は坂道を下ってゆく。

 今、車椅子の老人は拘束されてトランクに放り込まれている。4人の男はそのままだが、脚を打ち抜かれているので逃亡の心配はなかった。もっとも、老人に操られていたとすれば、彼らこそ最大の被害者かもしれなかったが。

 美咲は匿名で地元警察へ通報を行ったから、まもなく警察官たちが屋敷に踏み込んで誘拐された女たちを保護する事だろう。男の洗脳が浅ければ、まもなく家族の下に帰れるはずだった。

 だが、日名子には聞くべきことがあった。

 「あの男、何」

 車が高速に乗るまで彼女は沈黙していたが、そこで耐え切れなくなって切り出した。

 「何でしゃべるだけで人操るの。ついでに自分でやっててなんなんだけど、なんで私あんなとこでパンチ打ってんの。あんた何もかも分かってる風だったけど」

 美咲は、彼女には珍しく困ったような顔をして、しばらく黙っていた。

 それから彼女は言った。

 「あなたが必殺パンチ決めたのは、私があなたにそういう暗示かけてたから。もし私がだれかに支配されてやばくなったら、そいつを攻撃しろってヤツ。まあ、防護措置、攻性防壁、ファイヤウォール。この前あなたが車で昼寝してたとき、ふっと思いついて刷り込んどいたんだけど、まあ役に立ったわ」

 それから彼女は、どう応じていいか分からない日名子にさらに言った。

 「あと、あの男が何者で、私がなぜそれについて詳しいかってことは、あまり知らないほうがいいと思うけど」

 日名子が、「どういうことよ」と食い下がる。

 美咲はにやりと笑っていった。

 「知ったら、後戻りできないかもよ。私あなたの記憶消すなんてしたくないし、知りたくなかったって後で思っても遅いわよ」

 ふざけたセリフのようだったが、日名子は美咲が、真剣にそう言っているのを感じた。

 「それでも知りたい」

 5秒考え、日名子はそういった。

 「OK」

 なぜかうれしそうに、美咲はうなずいた。

 車はトンネルに達し、やがて都心に入った。

 そのころには日名子は、聞くんじゃなかったと後悔していた。

 そんな大それた争い事に自分が巻き込まれるなんて考えもしなかった。彼女のわずかなキャリアなど、今聞いた話にくらべればラーメンの上のナルト以下だった。

 そして問題なのは、日名子自身が美咲のパートナーにならねばならないという事だった。

 それは上司に押し付けられた仕事でのパートナーというのではなかった。むしろ立場はそれとは逆で、今この時点から、美咲は日名子の保護者であり、教師になるのだ。

 「なんてこと・・・・・」

 それなりに落ち込む日名子の肩を、美咲がぽんと叩いた。

 「それほど嫌なもんでもないわよ」

 人を、操るってね。

 車は、都市の光の渦に飲み込まれていった。

                           (終わり)





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