「んーっと、東棟308、うん、この教室だな」

 夜間の授業が始まる午後6時、僕はメールボックスに入っていた一切れの紙を手に、教室の前に立っていた。その紙には、こう書いてあった。

 

「心理学実験の協力者募集のお知らせ  心理学研究部

新年度が始まってもう一ヶ月、新入生の皆さんもだいぶ慣れてきたころだと思います。さてこのたび、私たち心理学研究部は統計的な実験を企画しています。そこで、この実験に協力してくださる方を募集します。実験は、こちらの質問に口頭で答えていただくという形を予定しています。興味のある方はぜひご参加ください」

 

 別段興味があったわけじゃない。ただ暇だったから足を運んでみたというだけだった。ただ、やっぱりドアの前に立つとノックをするのをためらう。僕はドアのガラス越しに中を覗いてみた。

 

 中は普通の、サークルの部室の雰囲気だった。机があって、イスがあって、二人の女生徒が談笑している。しばらくのぞいていると、その片方、髪の長いほうが僕に気づいてこちらに向かってきた。僕は慌ててドアから離れる。

 

 ドアが開き、髪の長い女生徒が出てきて僕を見た。

「え、えっと・・・」

 僕は間抜けな声を出した。女生徒は僕の握っていた紙に目をやり、言った。

「実験に協力してくださる方ですか?」

「あ、えーと、はい、そうです」

 僕がそういうと女生徒はにっこり笑う。

「ありがとうございます!それじゃ、中にどうぞ」

 

 僕は中に通された。どうも、中に入っても普通の部室だ。そりゃ、心理学関係の本はいろいろ置いてあるけど、心理学研究部なんだから当たり前か。

「実験に協力してくれるんだって。奈緒子、準備おねがい」

「はーい」

 奈緒子と呼ばれたもう片方の女生徒が席を立ち、棚からごそごそと箱を取り出す。箱の中には不思議な模様の描かれた紙が何枚か入っていた。

 

「あのー、これって何の実験なんですか?」

 席に座りながら、僕は少し不安になって聞いてみた。しかし返ってきた答えは僕の不安を解消してくれるものではなかった。

「心理学の実験なんだから、何の実験か教えちゃったら結果に狂いが出ちゃうでしょ?」

「でも大丈夫ですよ。こちらの質問に答えてもらって、データを取るだけですから」

 僕はこれ以上はあきらめて、素直に実験に参加することにした。

 

 少しの沈黙の後、奈緒子が口を開いた。

「じゃ、一応、自己紹介ね。私は立松 奈緒子」

「私は中村 マイです」

 つられて僕も名乗る。するとさっそくマイが説明を始めた。

「んーっと、これからあなたには、何枚かの絵を見てもらって、それについてこちらの質問に答えてもらいます。それと、脈を取るので、左手の手首を机の上に出しておいてください。実験はそれだけです。あ、もし、結果が知りたければ、メールアドレスをあとで教えてくれれば説明とともに送りますよ」

「はあ、ロールシャッハテストみたいなものですか?」

 僕は貧しい知識の中から適当な単語をあさって言ってみる。奈緒子が首をかしげた。

「うーん、ちょっと違うかな。ま、やってみればわかるよ」

 

 まだ何がなんだかわからないまま、僕は左手を前に出す。奈緒子が手首を握った。実験が始まるらしい。奈緒子は箱から一枚の紙を取り出し、マイに手渡した。紙には、紫から赤、オレンジ色までのグラデーションで、うねった模様が描かれていた。マイはそれを両手で机の上に立てて、言った。

「はい、じゃあこの絵を見てください。何に見えますか?」

「え・・・何に、と言われても・・・」

 僕は返答に困る。

「よく見てください。どんな色が見えますか?」

「紫、赤、オレンジです」

「そうですね、では、一番明るい色は何色ですか?」

「・・・オレンジ色です」

 奈緒子はさっきから一言もしゃべらない。マイの口調もどうも穏やかで、他に音は何もなかった。僕の声も知らないうちに低くなっていた。

「では、右上の端から、オレンジ色の部分を目で追っていってください」

「・・・はい」

 予想していたのとずいぶん違う指示に僕は一瞬戸惑ったが、きっとそういう実験なんだろう。オレンジ色の線を目でなぞってみる。色分けされた等高線のようなその模様は、目でなぞるとなるとけっこう難しかった。目で追っていくうちに、僕は今どこをなぞっているのかわからなくなってしまった。少しあせって、もう一度右上の端からスタートする。

「心拍数が上がりました」

 目で追うことに必死だったところで、急に奈緒子の声がした。僕はそれで、自分の心拍数が上がっていたことに気づいた。マイははい、と言い、さらに僕に、線を追うのを続けるように言った。

 

「終わりましたか?」

 僕がマイのほうをみたのに気づいたか、彼女は言った。

「はい、だいたい」

「目が疲れたでしょう。しばらく休んでください。もうまぶたが重いはずです。目を閉じていいですよ」

 言われてみればまぶたが重い。僕は目を閉じる。

「はい、じゃ深呼吸をして、リラックスしてください」

 僕は言われるままに深呼吸をした。

 

吸って。

吐いて。

 

吸って。

 

 

吐いて。

 

 

 

「心拍数、下がりました」

 そこでまた、奈緒子が静かな声で言う。なるほどな、この実験は質問に答える実験というよりは、心拍数を計る実験なのか。僕は納得した。確かに心臓の鼓動はさっきよりかなり落ち着いている。僕はその不思議なリラックス感にしばらく浸った。

 

「はい、では目を開けてください」

 マイの声で目を開けると、彼女は手に別の絵を持っていた。黒線がぐるぐると何重にも巻かれた、渦巻き模様。また目の疲れる絵を持ってきた。そう思うと、ひとりでにまぶたが重くなった。

「これは何に見えますか?」

「・・・渦巻きです」

 今度は返答に困ることはなかった。誰が見たって渦巻きだ。

「ではその渦巻きの、一番外側の入り口を見つけてください」

「・・・はい」

「では、そこから入って、渦巻きにそって中心を目指してください。ゆっくり、慎重に、間違えないようにしてください」

「はい」

 

 よーい、どん。僕は渦巻きの線でできた細い道を、迷路の要領で目でなぞる。しばらくしてマイが、静かな、低い声でつぶやき始めた。僕は渦巻きを目で追いながらも、なぜかその声を聞かずにはいられなかった。

 

「渦巻きの中に入っていきましたね。・・・そのまま、ゆーっくりまわって進んでいってください」

 

僕は渦巻きを目で追っている。

マイの声が耳から入ってくる。

 

「何周まわっても同じような渦巻き。でも確実にあなたは中心に近づいています」

 

何周まわっても同じような渦巻き。

僕の目は渦巻きの中心へと近づいている。

僕の耳からは声が入ってくる。

 

「だんだん中心に近づいてきましたね。中心に近づくにつれて、線をなぞるのが難しくなってくる。目が疲れてきたでしょう。あと少し、あと少しで中心にたどり着きます」

 

確かに目が疲れた。

僕の耳からは誰かの声が入ってくる。

僕は渦巻きの線を中心へと進んでいる。

僕はあと少しで中心にたどり着く。

 

「だんだん目が疲れてきたでしょう。中心にたどり着いたら、休んでいいんですよ。中心にたどり着いたら、まぶたがおりて、体じゅうの力が抜ける」

 

まぶたが重い。

あと少しで中心。

目を閉じていい。

休んでいい。

あと少しで中心。

あと3周。

あと2周。

あと1周。

 

中心。

 

 

 僕は、目を閉じた。どこからか、声が聞こえる。

「体じゅうの力が抜けました。目から始まって、次は首の力が抜ける。肩の力も抜ける。腕、背中、脚まで、すべての力が抜けていきます。さあ、力が抜けました。力が抜けたら、そのまま前に倒れてしまいましょうね」

 

 僕は驚いていた。何でこんな風になっているのかよく覚えていないが、僕のからだの動きに合わせて次々に言葉が耳の中に入ってくる。あるいは、僕のからだが、言葉に合わせて力が抜けているのかもしれなかった。

 

「たとえば授業中」

 その声が続いた。

「眠くて眠くてどうしようもないとき、気がつくと頭が机にくっつきそうになるくらい垂れ下がってたり」

 あー、ある、そういうの、あるよな。

「でも、頭のどこかで先生の声は聞こえてるの」

 あれ?僕はどこにいるんだっけ?

「そんなときは、自分が寝てるのか起きてるのかさえわからなくなってしまう。自分の頭がどこにあるのか、自分の手がどこに向いてるのか、わからなくなってしまいます」

 それはつまり、自分がどこにいるのかわからないということ。僕の五感は、

視覚が奪われ、

触覚が奪われ、

かろうじて残っている聴覚で誰かの声だけを聞いていた。

「私の声があなたの耳に入っていく。

 声が頭に直接入っていきます。

 とても気持ちいい。

 私の声以外、何もありません。

 あなたの周りには、何もない。

 言い換えれば、そこにあなたはいない。

 とても気持ちいい」

 

 そこにあなたはいない。その言葉を聞いたとき、僕の身体がぴくんと跳ねた。

 

「いま、からだがぴくんとふるえましたね。それは、あなたがそこの世界に入っているしるしです。私の声以外何もない世界。『そこにあなたはいない』という言葉を聞くと、あなたはいつでも、その世界に来ることができます。では、そろそろこちらの世界に戻ってきましょうか」

 

僕はだんだんここがどこなのかよくわからなくなってきた。あれ?たしか、実験に参加して・・・その後がよく思い出せない。ここはどこだろう?

 

「あなたの頭はいま、机の上に乗っています。

 あなたは机に突っ伏しているのです。

 あなたの右手は肩からたれさがっています。

 あなたの左手は机の上においてあります。

 どこに何があるのかわかりましたね。

 手足にだんだん力が戻ってきますよ。

 頭もすっきりしてきた。

 私が手をたたくと、すっきりと起き上がることができます」

 

ぱんっ。

 

 

 

 僕は机に突っ伏していた。顔を上げると、困ったような二人の女生徒の顔。

「あ、あれ?」

 僕は間抜けな声を上げた。

「・・・おはようございます」

 マイがあきれたように言う。彼女の手には最初の、うねうねとした等高線のもようの紙がある。

「寝ちゃってたね」

 奈緒子は、手――僕の左手首を握っていた――をはなして苦笑した。

 

「アレ?・・・うーん、よく思い出せない」

「途中で寝ちゃったんですよ。あ、でも、とりあえずデータは取れたので大丈夫ですよ。お疲れ様でした」

「あ、それでね。この実験は、追跡調査、・・・つまり、おんなじ人に何回か来てもらって、続けてデータを取りたいんだけど・・・、いい?」

 

 いったい僕はいつ寝たんだ?あのうねうね模様の絵は覚えてる。それから・・・僕は記憶が思った以上にあいまいなのを知って、愕然とした。何をされたんだ!?

 

「・・・あー、ちょっとこれからいろいろ、授業とか忙しいですし、このあと何回か来る、・・・っていうのはちょっと、その、難しいんですけど」

 僕は気味が悪くなって、ここにはもう来ないことにした。

「あ、そうですね。そのチラシにも追跡調査だっていうのを書き忘れちゃったし、別に強制では全然ないので」

「うん、それに、一回だけでも十分役に立つデータが取れるしね」

 

「それじゃ、失礼しまーす」

「ご協力ありがとうございましたー」

 僕は部室をあとにした。この部屋にくることももうないだろう。しかし結局、何の実験だったんだ?アレ。

 

 

 

 部室。

「しっかしよく効いてたわね、あのコ」

「いい素材ね。これからも来てもらいましょう」

OK、『そこにあなたはいない』ね」




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